土俵の中には何が入っている?いつから土俵は女人禁制になった?

土俵(どひょう)とは、土を盛って作る相撲の競技場のことです。

土俵の正式名称は「土俵場(どひょうば)」です。

土俵場縮めた呼称が「土俵」になります。

テレビの大相撲放送があるので「土俵」を見たことばない人は少ないと考えられます。

土俵の中に入れるものや、土俵が女人禁制になったのはいつからなのか、気にしている人も多いようです。

古来から続く相撲ですが、相撲節会に土俵はなかったとされています。

「相撲伝書」によれば、鎌倉時代に見物人が直径7~9m(4~5間)の輪を作り、これを「人方屋」と称したと記されています。

「人方屋」という4~5間の輪が土俵の起源であると考えられています。

大相撲興行が始まったのは江戸時代になります。

「人方屋」では、特定の力士の贔屓が手を出して勝負を妨害するなどの喧嘩が絶えなかったとされています。

この為、寛文年間(1661~1673年)に、現在のリングのように4本の柱の下に紐などで囲ったものになったとされています。

それが俵で囲んだものになり、四角い土俵になったと考えられています。

四角い土俵は、各地の神社や南部相撲などに現存して使用されています。

 

次に、土俵のこと・土俵の中に入れるもの・土俵の女人禁制はいつから、などの紹介をします。

 

土俵(どひょう)

 

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土俵とは、「土俵場」という名称を縮めた呼び名です。

「俵」に土を詰めた袋(土俵)を使っているために、土俵場と呼ばれます。

現代の大相撲では、一辺が22尺(6.7m)の正方形に土を盛って、中央に直径15尺(4.55m)円が、「勝負俵」で作られています。

円の東西南北4ヶ所に「徳俵」と呼ばれる、俵1つ分の出っ張りが設けられています。

円の外側には正方形の形で「角俵」を配置して、正方形の角には、「あげ俵」が配置されています。

土俵に上がる段のための「踏み俵」、南西・南東には力水のための水桶を置く「水桶俵」が配置されています。

土俵には合計で66俵が使われています。

昔は、俵を四角に配した「角土俵」が主流でした。

現在使われる「丸土俵」は、江戸時代に現れました。

現在でも、角土俵が現存する地域もあります。

岡山県勝央町植月地区では、「角土俵」による奉納相撲が小学校行事として現在も行われています。

俵は主に稲藁を細い俵状に編んだものが使用されて、俵の中には土が入れられています。

地方自治体で設置された土俵では頑丈なシートで俵を作成する場合もあります。

 

土俵の中に入れるもの

 

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俗に「土俵には金が埋まっている」と言われるので、土俵の中に入れるものが気になっている人もいるようです。

これは「土俵で出世すれば金が入ってくる」と、「取的」や「褌担ぎ」を励ますための比喩表現です。

土俵に入っているのは、実際には金ではありません。

縁起を担ぐ意味で、勝栗・昆布・米・スルメ・塩・榧の実が、神への供物として土俵祭の際に埋められています。

次に、土俵の女人禁制はいつから、などの紹介をします。

 

土俵が女人禁制になったのはいつから

 

“土俵には金が埋まっている”と言いますが、土俵の中に入れるものは金ではありません。縁起を担ぐための神への供物です。

土俵が女人禁制になったのはいつからなのか、などの理由などを紹介します。

日本相撲協会主催の大相撲などでは、伝統を重んじて土俵は神聖な場所で女人禁制とされています。

江戸時代での男性力士だけによる「勧進大相撲」は、もっぱら女人禁制の神社仏閣の境内で行われていました。

必然的に、「勧進大相撲」は裸の男性力士同士の厳しい実力勝負として、土俵上だけでなく観客席含めて全てが「女人禁制」で興行されていました。

明治5年太政官布告第98号により、神社仏閣の境内への女性の出入りが解禁されました。

女性の出入りが解禁された以後は、女性客も男性力士だけによる「大相撲」を大っぴらに観戦することができるようになりました。

「日本相撲協会」では土俵は女人禁制としていますが、興行としての女相撲は昭和30年代後半までありました。

スポーツや神事としての女子相撲が古代から現代に至るまで脈々と続いています。

「日本相撲協会」の「大相撲」では、観客席を除く土俵の部分だけは「女人禁制」の神聖な場所であるとしていますが、歴史的事実とも現実とも矛盾する主張だとする説もあります。

女性差別ではと問題視される事件が時々発生しているので海外からも注目されています。

皆が納得できる説明が必要だと考えられています。